「お世継ぎづくりが最優先」想像を絶する苛酷な未来が決定している皇室に嫁ごうとする女性は出てくるのか | ニコニコニュース
■ご結婚の7年前、最初の出会い
天皇・皇后両陛下は、今年の6月9日にご結婚から30年の節目をお迎えになる。これまでの歳月を振り返ってみたい。
まず両陛下の最初の出会いは、昭和61年(1986年)10月18日。東宮御所で開かれたスペインのカルロス国王の長女エレナ王女の歓迎パーティーでのこと。当時は外務省条約局長だった小和田恒(ひさし)氏のご令嬢として、皇后陛下が出席されていた。
この時のご印象について、平成5年(1993年)1月19日のご婚約に際しての記者会見で、それぞれ語っておられる。
天皇陛下「話題にも非常に共通性があって、お互いに心が通じあうというような、そういう感じを強く持ちました」
皇后陛下「緊張してご挨拶申し上げたのですが、その後は何か意外なほどに話がはずんだのを覚えております」
■メディアが殺到、“お妃候補”を辞退
しかし、皇后陛下の元にメディアが殺到し、いったんはお妃候補を辞退されている。皇后陛下は昭和60年(1985年)に米国ハーバード大学を極めて優秀な成績で卒業され、その後、東京大学法学部に学士入学された年に、早くも難関の外交官試験に合格して外務省への入省を決められた。その矢先の騒ぎだった。
メディアは小和田邸の前に詰めかけ、皇后陛下が出勤するために玄関を出たとたんにフラッシュを浴びせ、テレビカメラを向けた。さらに夜中の帰宅途中にも記者たちが尾行を続け、暗がりから声をかけるなど、非常識な振る舞いを続けた。
外務省から派遣されて、オックスフォード大学の大学院に留学されても、メディアは追いかけた。これでは、お妃候補を固辞されたくなるのも当然だろう。
■「一生全力でお守りします」
しかし、天皇陛下のお気持ちは強かった。皇后陛下がご帰国後、お二人は平成4年(1992年)10月3日に千葉県の新浜(にいはま)鴨場で会われ、ここで陛下は正式にご結婚を申し込まれている。この時、陛下は赤坂御用地の門を出入りする際に、誰にも気づかれないよう、ワンボックスカーの後部座席で毛布をかぶって身を隠されたという。
同年12月12日、皇后陛下は悩み続けられた末に「本当に私でよろしいのでしょうか」とお返事された。陛下のお申し出を受け入れられる決断をされた背景には、皇后陛下の不安なお気持ちを思いやられた陛下の決然としたお言葉があった事実は、今では比較的よく知られているだろう。
「皇室に入られることには、いろいろと不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」
陛下はその後の長い歳月の中で、逆風が吹きすさぶ時期が続いても、このお約束を固く守り続けられた。
■ご結婚後の「男児を産め」という重圧
平成5年(1993年)6月9日、皇居にある宮中三殿の賢所(かしこどころ)で「結婚の儀」が厳かに執り行われた。皇族方や宮澤喜一首相ら三権の長、各閣僚、都道府県知事らが参列した。
その後、オープンカーでの祝賀パレードの時には、それまで降っていた雨も止み、光が射した。沿道では約19万2000人の人々が祝意を表した。
慶びに満ちた門出だった。
ところが、皇后陛下が皇室に入られると、「男児を産め」という強烈な重圧がかかる。
平成11年(1999年)12月には、朝日新聞がまだ医学的な見地から正式に発表できる段階に至っていないのに、一面トップ記事で「懐妊の兆候」と勇み足の報道をした。これに各メディアも追随して加熱報道がなされる中、宮内庁から「稽留(けいりゅう)流産」との発表がなされるという、極めて残念な出来事もあった。
■ご結婚から8年後の愛子さまご誕生
平成13年(2001年)12月1日、天皇・皇后両陛下のご長子、敬宮(としのみや)(愛子内親王)殿下がめでたく誕生された。この時のご様子を宮内庁病院の関係者は次のように語っていた。
「言葉に言い尽くせないほど感動しました。心の底から信頼し合っていて、お幸せそうというよりも美しい光景でした。お二人で長期にわたる不妊治療を経てようやくご出産という喜びを掴(つか)まれた絆(きずな)は、本当に素晴らしいものでした」と。
翌年の歌会始では、皇后陛下は敬宮殿下を授かったお喜びを、次のように詠んでおられた。
同年4月2日の記者会見では、皇后陛下は「生まれてきてくれてありがとうという気持ちで一杯になりました」と、涙を滲(にじ)ませながら語られた。
■宮内庁長官が「秋篠宮家に第3子を期待」
ところが宮内庁は、お子さまが男児でなかったことから、早々と第2子を期待する動きを見せ、それが次第に強まった。皇后陛下が体調を崩されても宮内庁の対応は鈍かった。
さらに平成15年(2003年)12月11日には、当時の湯浅利夫長官の記者会見で、天皇・皇后両陛下にはもうお世継ぎを期待しない、と通告するに等しい心ない発言も飛び出した。
「秋篠宮さまのお考えもあると思うが、皇室の繁栄を考えた場合、3人目のご出産を強く希望したい」と。
宮内庁長官が記者会見という場で、このような発言をあえて行う必要がどこにあったのか。直接、ご本人にお伝えすれば済む話だったのではないのか。
■「人格を否定するような動きがあった」
天皇陛下は、皇后陛下のご体調が最悪だったとされる平成16年(2004年)5月10日の、デンマーク・ポルトガル・スペインご訪問に際しての記者会見で、衝撃的な発言をされている。
「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と。
「皇太子」という重いお立場を考えると、大きな勇気を必要とするご発言だった。それは当然ながら波紋を広げた。しかし、これがきっかけになって、宮内庁はようやく専門医を探すなど、本気で皇后陛下のご体調への配慮を見せるようになった。
だが、宮内庁がもっと速やかに対応できていれば、皇后陛下が今もご静養を続けなければならないほどの症状の悪化は、避けることができたのではないか。
■皇后陛下への執拗なバッシング
このような事態を招いた最大の理由は、お世継ぎ問題の重圧、「男児を産め」という強い圧迫だった。
その上、ご病気が原因であるにもかかわらず、皇室のさまざまなご公務や祭祀に十分、携われないことが、バッシングの材料とされた。
皇后陛下への事実無根の執拗なバッシングは、時に天皇陛下にも飛び火し、さらに幼い敬宮殿下についてさえ、デタラメな記事が週刊誌に載る始末だった。天皇陛下にご病気がちな皇后陛下とのご離婚を迫り、それが無理なら皇位継承の順序を変更して、秋篠宮殿下に即位していただくことを主張するような論説すら、現れた(八木秀次氏『SAPIO』平成19年[2007年]5月9日号)。
皇后陛下は昨年のお誕生日に際しての「ご感想」の中で、ご結婚以来の歳月を振り返られて、次のように述べておられた。
「これまでの人生を思い返してみますと、29歳半までの前半にも、また、皇室に入りましてからの後半にも、本当に様々なことがあり、たくさんの喜びの時とともに、ときには悲しみの時も経ながら歩んできたことを感じます」
さりげなく「ときには悲しみの時も」あった、と往時のおつらかった日々に触れておられる。
■「平成」から「令和」へ
しかし、時代が「平成」から「令和」に移ると、国民の多くは天皇陛下のご即位を心からお祝いした。令和元年(2019年)11月10日に行われた祝賀パレード「祝賀御列(おんれつ)の儀」には、およそ11万9000人の国民が沿道に詰めかけ、歓声を上げ、日の丸の小旗を振って、お祝いの気持ちを表した。オープンカーに乗られた両陛下のお顔は喜びにあふれ、皇后陛下は時折、喜びの涙を拭われた。
その後、コロナ禍に見舞われたために、天皇・皇后両陛下が望んでおられる国民との身近な触れ合いが、しばらく困難になってしまったのは残念だった。
そのような中、令和4年(2022年)3月17日に、敬宮殿下がご成年を迎えられたことにともなう記者会見が行われると、人々はそのご成長ぶりに目を見張った。お健やかでご聡明、さらに優美さの中に温かなユーモアまで兼ね備えられた、まさに“皇女(こうじょ)”としての輝きに満ちたご会見だった。
敬宮殿下のお姿を通じて、天皇・皇后両陛下が国民と苦楽をともにし、国民に寄り添われる皇室の伝統的な精神を受け継がれ、しかもお幸せなご家庭を築いておられる事実が、国民の前に鮮やかに示された。
■次世代への重圧はより苛酷に
先頃行われた令和になって初めての園遊会でも示されたような、両陛下が国民に寄せられるお優しいお気持ちを、敬宮殿下は誰よりもまっすぐに受け継いでおられる。そうであれば、ご本人のご納得を前提に、是非とも“次の天皇”になっていただきたいと願う国民が多くいても、不思議ではないだろう。
しかし残念ながら、今の制度のままでは、敬宮殿下はご結婚とともに皇室を離れてしまわれることになる。今の皇室典範では、ただ「女性だから」というだけの理由で、皇位の継承資格が認められていないからだ。
さらに、国民の中から女性が皇室に嫁ぐ場合、次代の皇室を支える男性皇族は秋篠宮家のご長男、悠仁親王殿下ただお一人しかおられない。そのため、天皇・皇后両陛下が直面された「男児を産め」という重圧は、さらに想像を絶して苛酷なものとなるだろう。
■「お世継ぎづくりが最優先」
すでにこんな声まであがっている。
「皇室においては、お世継ぎづくりが最優先です。……悠仁殿下には……いっそ学校など行かずにいち早くご結婚いただくことが何よりに優先事項ではないでしょうか」(倉山満氏『決定版皇室論』)。
しかし、このような皇室の方々のご人格を平然と踏みにじる言論が横行すること自体、悠仁殿下のご結婚を至難にするのではあるまいか。「お世継ぎづくり」のためだけに皇室に嫁ごうとする女性がいるとは、常識的には想像しにくいからだ。
■いつまで旧時代のルールにしがみつくのか
英国では長くエリザベス女王つまり“女性”君主の時代が続き、今はチャールズ新国王つまり“女系”君主の時代に移った。現在、世界中の君主国の中で、一夫多妻制の国を除き、わが国が明治以来、採用している「男系男子」限定という旧時代的なルールをいまだに維持しているのは、人口わずか約4万人ほどのミニ国家、リヒテンシュタインぐらいしかない。
明治時代には側室制度があり、旧皇室典範では非嫡出による皇位継承も認めていた。だが、今はもちろんそのような制度はない。にもかかわらず、一夫一婦制の下では持続困難な男系男子限定ルールに、日本はいつまでしがみつくつもりなのか。
天皇・皇后両陛下が、平成時代にくぐり抜けられたおつらい日々を、次の世代にも繰り返させるのか。
両陛下のご結婚30年に際して、そのご慶事をことほぐとともに、政府・国会で皇室典範の改正が課題とされている今のタイミングだからこそ、皇室の将来のためにどのようなルールが望ましいか、国民としてきちんと考える必要があるのではないだろうか。
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神道学者、皇室研究者
1957年、岡山県生まれ。国学院大学文学部卒、同大学院博士課程単位取得。皇位継承儀礼の研究から出発し、日本史全体に関心を持ち現代の問題にも発言。『皇室典範に関する有識者会議』のヒアリングに応じる。拓殖大学客員教授などを歴任。現在、日本文化総合研究所代表。神道宗教学会理事。国学院大学講師。著書に『「女性天皇」の成立』『天皇「生前退位」の真実』『日本の10大天皇』『歴代天皇辞典』など。ホームページ「明快! 高森型録」
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