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【篠原涼子】50歳に『ごっつええ感じ』は「やっぱり怖くて泣いて」と…

篠原涼子50歳に 『ごっつええ感じ』は「やっぱり怖くて泣いて」と…16歳で芸能界へ、乗り越えてきた「試練の数々」 | ニコニコニュース

 昨年の大晦日NHK紅白歌合戦では篠原涼子が28年ぶり2度目の出場を果たした。披露した曲は、1994年小室哲哉プロデュースにより200万枚超を売り上げるメガヒットとなった「恋(いと)しさと せつなさと 心強さと」であった。

 きょう8月13日、50歳の誕生日を迎えた篠原は、ここ20年ほどは俳優業がメインで、歌手活動からは遠ざかっていた。だが、昨年9月に上記の曲をセルフカバーした「恋しさと せつなさと 心強さと 2023」をデジタルリリースし、反響を呼ぶ。紅白出場が決まってからもボイストレーニングに精を出してきたという。そのおかげか、本番での歌声はブランクをちっとも感じさせず、筆者もすっかり圧倒されてしまった。キーも彼女が20歳でこの曲を歌ったときのままであった。

小室哲哉に「キーが高すぎる」

 じつは29年前のレコーディング時、篠原はこの曲のキーは高すぎると小室に訴えていた。彼女によれば、そのとき、こんなやりとりがあったという。

《あぁ高い高いと思って、駄目です、声が出ないと思いますって言ったら、『大丈夫大丈夫』って。えっ、大丈夫じゃないから言ってるんです、小室さん、どうしたらいいんでしょうって言ったら『ねぇ、高いよねぇ、でも大丈夫だよ、歌って』って。そしたらはい、わかりましたって言うしかないじゃないですか。で、歌ったら歌えちゃって、慣れてきたら歌えるようになったんです。音域もすごく広くなりました。出ないと思っていた声が出るようになって。なんだ、出るじゃんって自分でも思ってました》(『Views』1996年1月号)

 篠原のポテンシャルを引き出した小室マジックというべきか。小室とは先述の「恋しさと せつなさと 心強さと 2023」のレコーディングに際し久々に再会を果たし(同曲のミュージックビデオにはそのときの様子が登場する)、紅白でも彼のピアノ演奏のもと歌唱した。

憧れのアイドルの存在

 昨年の紅白では、中森明菜サプライズ出演も噂されたが、結局実現しなかった。幼い頃から歌が大好きだった篠原にとって中森は憧れの存在であり、《部屋中、明菜さんの写真を貼りまくって、いつか彼女と同じステージに立つんだ! と、勝手に決意してた。(笑)》という(『婦人公論』2000年4月7日号)。

 篠原は、地元・群馬の高校在学中の1989年、雑誌『月刊デ☆ビュー』の実施する「夏の特別オーディション」に応募して、その後所属する事務所の目に留まり、芸能界入りのきっかけをつかむ。翌年、アイドルグループ・東京パフォーマンスドール(TPD)の一員としてデビューした。

 芸能界入りが決まると、すぐに上京を決意し、地元の高校を中退している。だが、上京すればすぐに歌手になれるものと思っていたのに、デビューアイドルグループの一員としてであり、歌だけでは活動できなかった。もともと団体行動が苦手なうえ、当初は仕事もあまりなく、寿司屋でバイトしながら「このまま私はここでずっと働くのか……」と落ち込んだりもしたという。

「突然の解散宣言」計画もあった

 しかし、そのうちにTPDは原宿のライブハウス・ルイードで1日2回ライブを行うようになり、公演の合間もすべて練習時間にとられ、休みはまったくなくなった。メンバーたちはみんなソロになりたがっていただけに、だんだん現状への不満が膨らんでいく。ついには、かつてキャンディーズマネージャーにも内緒でステージで突然解散宣言したのにならって、自分たちもライブ中に実行しようかと話したりもした。だが、結局、最後まで誰も言い出せず、不発に終わったという(『婦人公論』前掲号)。

 小室哲哉はまだTPDがデビュー直後でライブの客が10人ぐらいしかいない頃から、篠原に目をつけていたらしい。1991年には小室の所属するユニットTMNミュージックビデオに出演し、それが「恋しさと せつなさと 心強さと」へとつながっていく。彼女がTPDを卒業したのは1994年9月だが、「恋しさと~」のリリースはその直前の7月であった。TPDのみんなにも「おめでとうコールで見送られながら、本格的にソロ歌手の道を歩み始める。

 前後して1991年12月からは、フジテレビ系バラエティ番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』にレギュラー出演を始めていた。あの番組をリアルタイムで見ていた世代には、このときの天然キャライメージがまだ残っているという人も多いだろう。

ごっつええ感じ』は試練だった

 当の篠原からすれば、当時お笑い界の最前線にいたダウンタウンをはじめ芸人たちがしのぎを削る『ごっつええ感じ』への出演は試練であった。後年、《あれは本当に、お化け屋敷にいきなり放り込まれたみたいな状態でしたよ~(笑)。泣きながら入って、入ったらやっぱり怖くて泣いて。当時は自分がどんなふうに見られるか、計算してる余裕もなかった。でも、途中からは『お笑いってこういう感じ?』って少しわかってきて、狙い始めたんですよ》と顧みている(『anan』2013年9月11日号)。

 歌手活動が多忙になったため、1997年に番組から卒業するに際しては、《楽しい仕事も永遠には続かないんだな》と感じるまでになっていた(前掲)。もっとも、アドリブができないので、バラエティは苦手とのちになっても語っている。ドラマにもTPD時代から単独で出演していたが、芝居には全然興味がなく、いやで仕方がなかったという(『婦人公論』前掲号)。

 しかし、歌手としては「恋しさと~」のあと何曲かヒットが続いたものの、しばらくすると途絶えてしまった。夢だった歌手活動が行き詰まり、それでも何かに力を注がねばいけないと強く感じた篠原が選んだのがほかでもない、芝居であった。

初舞台に「もう幻滅」と…

 23歳のとき、初めて演技に自信を持てたできごとがあった。ドラマナニワ金融道2』(1996年)にゲスト出演したとき、あるシーンを撮り終えたあとで、演出の石坂(現・宮本)理江子とプロデューサーの山口雅俊が主演の中居正広とともに「篠原、今すごくよかったよね」と話しているのが耳に入ってきたのだ。なおかつ、本人たちがそのことを直接伝えてくれた。篠原はそれがうれしくて、「演技、やってみようかな」という気になったという(『週刊朝日』2018年8月17・24日号)。

 2001年にはシェイクスピアの名作を蜷川幸雄が演出した『ハムレット』で初舞台を踏む。このとき、主要な登場人物のひとりであるオフィーリア役に抜擢された。公演初日、楽屋に戻ると1枚のハガキが置いてあり、そこには「あんなオフィーリア見たことない、もう幻滅」と書かれてあった。しかし、それを見た篠原の反応は次のようなものだった。

《悔しいっていうよりは、そうか、いいって言ってくれる人ばかりじゃなくて、こんなふうに思う人もいるんだって。それで、舞台が終わるまでの間、そのハガキを戒めのようにずっと飾っておいたんです。批判って一瞬は傷つくけど、傷ついたまま終わらせちゃったら、自分が凄くかわいそう。だから前向きに捉えて、次へのステップにしてるんです》(『anan』2015年9月2日号)

 こうした芯の強い一面が、のちにドラマで演じた役にも反映されているのだろう。2004年には連続ドラマ初主演となる『光とともに…~自閉症児を抱えて~』で母親役を好演し、話題を集めた。

シャワーシーンのために肉体改造

 さらに翌2005年の『anegoアネゴ]』に続き、2006年には『アンフェア』、2007年には『ハケンの品格』と、あいついでドラマで主演を務める。とりわけ『アンフェア』で演じた警視庁の敏腕刑事・雪平夏見、『ハケンの品格』で演じたスーパー派遣社員の大前春子はいずれも当たり役となり、シリーズ化された。

『アンフェア』は映画化もされ、2作目の『アンフェア the answer』(2011年)からは同シリーズで脚本を担当してきた佐藤嗣麻子が監督となった。篠原にとって佐藤は多くの言葉を費やさなくてもすぐに意思疎通が図れる相手であり、直感で何かについて提案しても、すぐに理解して形にしてくれたという。

 映画の3作目でシリーズの締めくくりとなった『アンフェア the end』(2015年)では、撮影中に手ごたえを感じつつも、そのうちに観客の目線で映画をもっと楽しむためには何かが足りないような気がしてきた。何だろうと考えてみて、ふと「濡れ場?」とひらめく。そこで台本にはなかったものの、シャワーシーンを佐藤に提案すると、ストーリーを豊かに膨らませてくれた。さらに彼女のほうでも役づくりを徹底した。

《シャワーシーンを撮るならば、しなやかなだけの身体では雪平夏見らしくないと思いました。かわいいお尻というより、筋肉質で強そうなお尻だろうなとイメージして。撮影に向けてトレーニングもしました》(『婦人公論』2015年9月8日号)

撮影当日、鍛えぬいた体を披露

 撮影当日、その成果を佐藤に見せるべく、楽屋の蛍光灯の下で裸になった。佐藤はいろんな角度から眺めながら、篠原のまわりを一周すると、「うん、わかった」とだけ言って部屋を出ていったという。《女性同士だからこその、息の合い方ですね》と篠原は語る(前掲)。

 もう一つの代表作『ハケンの品格』は2020年、第1作から13年ぶりに第2シリーズが放送された。同作の脚本家・中園ミホとの放送前の対談では、中園が《13年前は派遣社員の敵は正社員や会社組織でしたけど、いまはAIかもしれないんですよね。(中略)でも大前春子ならAIに恋したりして。「自分より完璧だ!」とか》と話を振ると、篠原も《それはありえそう。私、大前春子には全然恋愛のイメージがないんですよね。キスはされても自分からしている絵は浮かばない! 右手と右足が一緒、みたいなことになっていそうで。「あれ、私としたことが」みたいな》と返している(『AERA2020年4月27日号)。このように打てば響くように想像を膨らませられる直感力こそ、俳優・篠原涼子の真骨頂なのだろう。

篠原涼子が「求め続けている夢」

 しかし、彼女が「根本的に求め続けている夢」はやはり歌だという。2019年インタビューでは次のように語っていた。

《歌はやっぱり好きだし、アーティストとして、まだやり切れていないという思いがあるんです。もちろん演技も好きですけれど、もともと好きだった歌は、主体的に自分のパワーを見せられる。スタイリングシチュエーションパフォーマンスまでスタイルを貫けるアーティストの生き方にも憧れがあるんです》(『CREA』2019年12月号)

 ただし、続けて《でも、これからについては、あまり決めつけたくないんです。決めてしまうと囚われの身になってしまうようで》と付け加えてもいる。将来について決めつけたくないのは、これまで自分の本意ではない仕事も、葛藤しながらも続けるうちに成果を出し、活動の範囲を広げてきたがゆえなのだろう。それでも、歌手として復活した篠原の今後の展開も気になるところだ。

(近藤 正高)

©文藝春秋

(出典 news.nicovideo.jp)

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