これはこの連載でもたびたび引用している、2012年1月に「職場のいじめ・嫌がらせ問題に関する円卓会議」のワーキンググループが提出した、報告書の最後に書かれていた言葉です。
全くもってその通りだなぁとつくづく思いますし、「私」たちは労働力を提供しているのであって、「人格」を提供しているわけじゃない。なのに、「人を傷つけずにはいられない人」が一向にあとを絶ちません。
「愛があればパワハラにならない」などと豪語する人はさすがにいなくなりましたし、職場で蹴りを入れたり殴ったりと、暴行まがいの悪行をするふとどき者も消えました。しかし一方で、精神的な攻撃は続いている。いや、むしろコロナ禍で増えたのでないか? そんなやるせない気持ちになることもしばしばあります。
実際、私のインタビューに協力してくださった人たちの中には、上司の陰湿ないじめに耐えきれず、コロナ禍で転職が厳しい時期に辞めた人や、うつを発症し会社を休職した人もいました。
いったなぜ、こんなにもパワハラはなくならないのか?
「いやいや、あれをパワハラといったらかわいそうだよ」と加害者を擁護する人もいます。ならば、“あれ”を側で見ていた=傍観者の「あなた」はなぜ、何もしなかったのか?
加害者の中には、「いっときの気分」で、心の奥底に秘めていた不満をぶちまけてしまった“だけ”の人もいるかもしれません。しかし、被害者にとっては「永遠の心の傷」です。ちょっとした加害者のしぐさ、視線、言葉の語尾にも心と体が敏感に反応する。いじめられた経験が一回もない人には分からないかもしれないけど、加害者が視界に入るだけでも心は疲弊します。
これまで報道された「パワハラ事件」でも、他の社員がいる中で繰り返されていたケースがたびたび報告されていますし、うつで休職して復帰した新たな部署で、再びパワハラ上司と一緒、しかも席は斜め向かいといった、信じられないことも起きていました。
もし、傍観者がもっと「自分ごと」として関わっていたら、最悪の事態を避けることができたのではないか? そう思えてなりません。
そこで今回は、「傍観者問題」から、「私」にできることを考えてみたいと思います。
●「自分が悪いのか?」 42歳男性のケース
「僕、前の職場でパワハラに遭っていたんです。でも、渦中にいる時って、そうは思えないんです。変な例えかもしれませんが、ドメスティック・バイオレンスを受ける人の気持ちが分かるような気がしました」
これは以前、インタビューした男性がこぼした一言です。
男性は某企業に勤める42歳。「自分のキャリアをひたすら語ってもらう」という趣旨の私のインタビューで、自身のパワハラ経験を話してくれたのです。
「僕は若い時から生意気で、相手が上司だろうと何だろうと意見を言ってきました。上は使いづらかったと思います。でも、入社して最初の上司が、社内の改革派と呼ばれている人でして。その人がサポートしてくれたおかげで、いろいろとやらせてもらいました。
ところがその上司が異動し、新しい上司の元で働くことになって、全てが変わりました。何を言っても否定され、みんなの前で怒鳴られる。部屋に1人呼ばれてチクチクと言われることもありました。
そうやってずっとダメ出しばっかりされると、だんだんと自分が悪いのではないか、と思うようになってしまったんです。
それで、とにかく上司に認めてもらおうとするようになった。よくドメスティック・バイオレンスを受けている人が、悪いのは自分だと言って相手をかばうと聞きますけど、僕もずっとそんなふうに自分を責めていたように思います。
でも、周りはパワハラに気が付いていたはずなんです。コテンパンにみんなの前でやられることはしょっちゅうありましたから。それである日、僕がいつものように上司に怒鳴られて、その時はもう、自分でもどうしていいのか分からず、立ち尽くすことしかできませんでした。
そうしたら、結構仲良くさせていただいていた先輩から、『まぁ、お互いうまくやろう』と言われてしまった。先輩は励ましたつもりだったのかもしれません。でも、ああ、やっぱり自分がダメなんだと、自分が嫌になりました。
今振り返ると、僕はあの時はすでにうつの一歩手前だった。それから数日後、朝、どうしても起きられなくて会社を休みました。家でずっと寝ていたんです。
そしたら、たまたま大学の同級生から電話があって、多分僕の様子が変だって、気付いたんでしょうね。彼は同級生たちの近況をいろいろと話してくれた。僕のリアクションが薄いのに、ひたすら話つづけました。あいつがどうしてるだの、〇〇さんが結婚したらしいとか。
で、その時に上司からパワハラを受けて自殺未遂を起こした同級生の話を聞いて。急に目の前が開けた。ああ、僕と同じ目にあってるじゃないか、って。悪いのは僕じゃなかった。あれはパワハラなんだって。
そう気づいたら、ずっと自分にのしかかっていた重しが取れて、会社をやめようって決心しました。
僕は運が良かったんだと思います。同級生との電話に救われたんですから。もし、それがなかったらって考えると、ちょっと怖いですね」
──さて、いかがでしょうか。
この男性のように、実際にはパワハラなのに、「自分が悪いのではないか」と自分を責める人たちは少なくありません。人間の「他者に認められたい」という承認欲求の隙間に、パワハラ上司が入り込んでいくのです。
件の男性のケースでは、それに拍車をかけたのが「まぁ、お互いうまくやろう」という先輩の一言でした。
お互いうまくやろう──。先輩は一体、どういう意味でこの一言をかけたのでしょうか?
「おまえも大変そうだけど、オレたちも大変なんだよ」と、自分たちも同じようにパワハラを受けていると言いたかったのでしょうか?
あるいは、「おまえのやり方にも問題があるから、もう少しちゃんとやれよ」と、暗に彼にも問題がある、と言いたかったのでしょうか?
真相は分かりません。しかし、一つだけ確かなのは、“傍観者“である先輩も「パワハラに結果的に手を貸した」という、歴然たる事実です。
そして、傍観者がパワハラを加速させる構造は、日本特有のものだと推察できる分析結果があります。
「子どもの世界は大人世界の縮図」と言われますが、1980年ごろから日本も含めて世界の国々で、「子どものいじめ」に関する研究が蓄積されています。その中で、日本には欧米とは異なる独特の「いじめの構造」があることが指摘されているのです。
欧米のいじめでは、「強い者が弱い者を攻撃する二層構造」が多いのに対し、日本では「いじめる人、いじめられる人、はやし立てる人、無関心な傍観者」という4種類の人で構成される「四層構造」がほとんど。四層構造では強者からの攻撃に加え、観衆や傍観者からの無視や仲間はずれといった、集団内の人間関係からの除外を図るいじめが多発します。いわば「集団による個の排除」です。
その結果、被害者は孤立し、「自分が悪いのでは?」と自分を責める傾向が強まることが分かりました。
もちろんこれは、「子どものいじめ」研究の中で確認されたものです。
しかし、大人社会の「村八分」などは、四層構造の典型的なケースですし、四層構造における「はやし立てる人」には、件の先輩のように「まぁ、お互いうまくやろう」とパワハラを批判しない人たちも含まれます。
さらに厄介なのは、四層構造の「無関心な傍観者」の多くが、自分がいじめに加担しているという意識がほぼないという、困ったリアルです。
●パワハラ防止策が「無意味」になる理由
「さわらぬ神にたたりなし」という言葉があるように、いじめを目撃しても「自分には関係ない」と放置したり、遠くから乾いた笑いを浮かべながら見守ったり。あるいは、「倫理委員会に報告したら、報復措置をとられるかもしれない」と考えたり。
そんな見て見ぬふりをする同僚たちの行動が、いじめられている人をさらに追い詰める。誰にも言えなくなる。逃げる気力ない。そして、傍観者は傍観者にさらに徹していくのです。
パワハラ防止法が中小企業にも適用されて半年がたち、相談窓口を設置したり、社内コンプライアンスを徹底する企業も増えてきました。
しかし、どんな制度も仕組みも、「その場」にいる人たちが、どう行動するか? で、無意味な制度に成り下がります。
とりわけ今のようにギスギスとした社会では、誰もがパワハラの加害者になるリスクも、被害者になるリスクもあります。そのリスクを下げるためにも、「自分ははやし立てる人になっていないか?」「私は傍観者になっていないか?」と自問することを、忘れないでほしいです。
だって、誰もが、家に帰れば自慢の娘であり、息子であり、尊敬されるべきお父さんであり、お母さんなのですから。
●河合薫氏のプロフィール:
東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。千葉大学教育学部を卒業後、全日本空輸に入社。気象予報士としてテレビ朝日系「ニュースステーション」などに出演。その後、東京大学大学院医学系研究科に進学し、現在に至る。
研究テーマは「人の働き方は環境がつくる」。フィールドワークとして600人超のビジネスマンをインタビュー。著書に『他人をバカにしたがる男たち』(日経プレミアシリーズ)など。近著は『残念な職場 53の研究が明かすヤバい真実』(PHP新書)、『面倒くさい女たち』(中公新書ラクレ)、『他人の足を引っぱる男たち』(日経プレミアシリーズ)、『定年後からの孤独入門』(SB新書)、『コロナショックと昭和おじさん社会』(日経プレミアシリーズ)『THE HOPE 50歳はどこへ消えた? 半径3メートルの幸福論』(プレジデント社)がある。
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