あんこはトラウマ、グミは開封すらしてもらえない…海外へのおみやげに喜ばれる日本のお菓子の“正解”は?
世界各地の家庭を訪れ、滞在しながら住人と一緒に料理をして、料理から見える社会や暮らしを探求している“台所探検家”の岡根谷実里さん。
ここでは岡根谷さんが「世界一おいしい社会科の教科書をつくりたい」という思いでまとめた『世界の食卓から世界が見える』から一部を抜粋。海外にお土産として持っていく日本のお菓子の“正解”とは——。(全2回の2回目/前編を読む)
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世界の家庭にお世話になる時、必ず手みやげにお菓子を持っていく。このお菓子を選ぶのが、ゲームのようでなかなか楽しい。そもそも、お菓子は地域の個性が強く出る。インドのお菓子は砂糖と油がたっぷり使われた目の覚めるようなものが多く、中東はスパイスや香料を多用し、東南アジアはぷるぷるの蒸し菓子があざやかな色で目を引きつける。
伝統菓子というのは、それぞれの土地の歴史や気候に加えて、美意識や贅の感覚を映して発展してきたこともあり、その国の嗜好が非常に強く表れる。当の文化圏の人にとってはおいしいものでも、その外に出ると「甘すぎてひと口でお腹いっぱい」「独特のにおいが苦手」と感じられたりする。または食べる前から「極彩色で食べるのが怖い」となったり逆に「白くてのっぺらぼうでおいしくなさそう」と言われたり。
世界中で広く受け入れられるのは、クッキーなどヨーロッパ発の焼き菓子くらいだろうか。でもだからと言って、日本からの手みやげでクッキーを持っていったところで、まったく目新しくないしおもしろくない。受け取るその人にとって「目新しい」けれど「受け入れやすい」味であるというこのバランスが、なかなか難しい。経験がある方もいるのではないだろうか。私も今まで色々試し、よい反応も悪い反応ももらってきた。そんな試行錯誤をご紹介したい。
はじめの頃は、「日本のお菓子=和菓子=まんじゅう」こそが日本みやげの正統だと信じて疑わず、あんこの入ったまんじゅうや餅菓子を持って行っていた。しかし、これが全然ウケがよくない。特にヨーロッパと中南米の家庭では、「あんこというのは豆を甘く煮たペーストで……」と説明している間にすでに不穏な表情をされる。
だんだんわかってきたのだが、豆を甘く煮たというのが、だめなのだ。ヨーロッパや中南米では、豆はもっぱらおかずの食材で、塩味で煮込んで肉料理の付け合わせやスープにする。スパイスを入れることはあっても、砂糖で煮るというのは、彼らの食経験からするとあり得ないのだ。しょっぱいはずのものが甘いと「気持ち悪い」につながり、おいしいと感じられない。
日本に留学していたオーストリアの友人は、「お菓子も、パンも、中に茶色いのが入っているからチョコだと思って食べたら甘い豆。今度こそはチョコと思ってもやっぱり甘い豆で、もうトラウマ」と語っていた。豆なのに甘い、チョコのようなのにチョコじゃない、二重に期待を裏切ってくるのが、あんこ入りの和菓子の非情なところだ。
和菓子に懲りて以来、長らく「キットカット」を鉄板手みやげにしていた。キットカット自体は、もちろん日本のものではない。スイスに本社を置く世界最大の食品・飲料会社ネスレ社の製品で、世界中のスーパーで手に入る。しかし、日本ほどに多様なフレーバーがある国はなく、抹茶やいちごのように定番化したものから、ご当地キットカット、それにわさびや日本酒といったとがったものまで数百の種類があるのは日本ならではだ。そこでスタンダード以外のキットカットを持っていくと、知っているお菓子だけれどフレーバーは目新しいので、「目新しいけれど受け入れやすい」のゾーンに入り、喜ばれるのだ。一番よく買っていくのは、日本らしさもある抹茶味だ。
ただし、キットカットも万能ではない。暑い国に持っていくと渡す前に溶けてしまうし、フレーバーによってはハラルでないものもあるのでイスラム教の家庭には持っていけない。
加えて、抹茶はきらいな人がいないと思っていたけれど、好きときらいがはっきり分かれる味だと最近わかってきた。確かに考えてみれば、抹茶の甘くて苦い味というのはコーヒーのようなもので、きわめて嗜好品的だ。国による差も大きいが、フィンランドで「喜ばれない」を通り越して「嫌な顔をされる」ことを経験して以来、キットカット抹茶味を選ぶのがこわくなった。そしてみやげ物探しの模索は続く。
私自身の子どもの頃のお菓子の思い出といえば、「コアラのマーチ」だ。プリントされた絵柄をなめて消してから食べるというのをおもしろがっていた。見た目が目新しくて会話のきっかけになるし、味は普通のチョコなので受け入れやすい。パッケージの仕掛けや細かいところが日本的で、中のチョコが暑さで溶けても出てこないので問題なし、そして子どもも楽しめる。そういうわけで、子どものいる家庭などにはよく持っていった。
そこそこ喜ばれていたように思う。ただし近年はアジアの国々の現地スーパーでも同じものが買えるし、よく似たローカル品が出回っていて、目新しさがない。ではヨーロッパではというと、食べ物にも何にでも顔を描くアジア文化をナンセンスだと感じる人もいて、その感覚を知ってからはやや気がひけるようになった。持っていく側の都合としても、六角形のパッケージは長旅の間に荷物の中でつぶれやすく、ひしゃげた箱を渡さなければいけないこともしばしば。だんだん、私の中でコアラのマーチを選ぶ理由が薄くなってきた。
それでも、やっぱりチョコ菓子は安定だ。日本のチョコはアジアの国々では品質が高いと人気らしいので、「アーモンドチョコレート」「トッポ」「きのこの山とたけのこの里」などをめぐるようになった。
チョコ菓子の中でも、「カントリーマアム」の地位は絶対だ。日本人が集まる時にお菓子を買うとなったら、まず買い物カゴに入ることは間違いない。熱烈に愛する人たちがいて、きらいという人には会ったことがない。日本らしさは薄いけれど、この柔らかいクッキーというのはどこにでもあるものではないから、まあ目新しさもあるだろう。個包装で大袋入りなので分けられるという利点もあり、よく買っていた。
ただしここ数年よく言われるようになったのは、「小さっ!」という驚きの言葉。私もそう思う。我らがカントリーマアムは世界標準のクッキーに比べてどんどん小さくなっている。そうすると一度に三つ四つと食べ進め、みるみるうちに袋のゴミの山ができる。途上国では家のまわりや道端に捨てられる。自分の持っていったお菓子で土地を汚すのが心苦しくて、買うのをためらうようになった。
日本では、最近グミ市場の成長が著しい。「果汁グミ」を展開する明治の推計によると、2021年のグミの市場規模は約600億円超。この10年で約2倍に増加し、ガムや清涼菓子を抜いたそうだ。昔からのぶどうやオレンジ味だけでなく、コーラやエナジードリンクやマシュマロ味などこれもグミになるのかというような味も登場し、食感もハード、ぷちっと、もちっと、しゃりもになど多様化。日本はオノマトペが多くて食感を楽しむ民族だと言われるし、これこそ現代の日本みやげとしてふさわしいではないか。受け取った人の驚き顔を想像しながら、矯めつ眇めつして買っていく。
ところが、そうやって吟味して選んでも、反応はいまいちわからない。開封すらしてもらえないことが多いのだ。嫌なのではない(と信じている)。おそらく原因は、袋の小ささだ。ヨーロッパなどのグミが大袋なのに対して、日本のはとても小さい一人仕様。みやげとして単体で持っていくには少なすぎる。ゆえにチョコ菓子などとセットで持っていくわけだが、小さくて分けづらいからなのか、気分が盛り上がらないからなのか、自分がいる間に食べてもらえることがほとんどない。後で食べてもしかしたら喜んでいるかもしれないけれど、チョコ菓子に比べて食感やら形状やら情報量が多く、やや面倒だ。ちなみに、グミに用いられるゼラチンは豚由来の可能性があるため、イスラム教の国や家庭にははじめからNGだ。
そんなわけで、絶対盤石と思っていたキットカットへの信頼が揺らいで以来、「どこでも誰にでも喜ばれる万能なお菓子」というのはまだ見つけられていない。ただ、そんな万能選手を見つけることへの関心が薄くなったのも事実で、「すべての外国人が喜んでくれる日本菓子」という万能性よりも「この国の人は何が好きだろうか」と互いの文化の共通性を見つける方がおもしろくなってきたのだ。たとえば、せんべいは欧米ではいまいちだが、インドネシアではウケがいい。食事に添えるクルプックというものに似ているからと聞き、「歌舞伎揚」を持っていったら本当に喜んでくれて、あっという間に一袋が空になった。
米食文化であることと、あの甘しょっぱい味がケチャップマニスというインドネシアの国民的調味料に似ていて馴染みがあるのもよかったのかもしれない。
なかなかクリアできないゲームだけれど、日本の菓子への反応を通して、訪問先の人たちにとっての食べものの見え方や嗜好が一段深く見えてくるのが、おもしろい。おみやげ選びから、旅ははじまっているのだ。