「どんな子育て支援があっても産まないほうがコスパがいい」若者が"子どもは無理"と判断する本当の理由 | ニコニコニュース
■満員電車に響いた赤ちゃんの泣き声
つい先日、所用があって地下鉄に乗っていたときに、とても居心地の悪い出来事があった。
ある駅で私が乗ってからほんの数駅先で赤ちゃん連れの母親が入ってきたのだが、赤ちゃんは車両に入ってきたときすでにベビーカーのなかでギャンギャン泣いている状態だった。
彼女はずっとあやそうとしているのだがうまくいかず、次の駅で運悪く車内の混雑が激しくなってきてしまった。そうして車両の轟音と赤ちゃんの泣き声だけが響く車内のどこからともなく「親は泣き止ませることはできないものかねえ~!」と年配の男性の声が上がったのだ。あたりを見回したが、私の視点からではその声の主は確認できなかった。母親もその声には直接返答はしなかったが、やはり動揺した様子で、申し訳なさそうに畳んだベビーカーを倒れないように手と腰で支えながら、子どもを抱きかかえて上下に揺らしていた。
いくら満員電車でピリピリしていたとはいえ、そもそも赤ちゃんが泣くのは当たり前だろうと感じ、いちいち声を張り上げるようなことかと釈然としない思いだったが、まもなく目的の駅に着いてしまった私は、なかなか泣きやまない赤ちゃんをあやしていた彼女よりも先に降車した。
■「迷惑をかけないこと」のハードルが飛躍的に上がる
ご存知のように現在の日本では毎年出生数が減少しており、今年はいよいよ大台の70万人台前半が確実視されている状況となっている。その原因について、仕事が不安定だからとかお金が足りないからとか子育て支援が不十分だからとか、色々と原因が挙げられている。私はそれらが全く無関係であるとまでは言わないが、こうした議論ではなかなか俎上(そじょう)に載せられない、もうひとつの大きな原因があると考えている。
それはすなわち、「社会や他人に迷惑をかけない」という倫理的ハードルの達成難度が、子どもを持ってしまうことで飛躍的に上昇してしまうことだ。
大人ひとり、あるいは大人同士のカップルが暮らしていくなら、いくらでも「社会や他人に迷惑をかけない」という現代社会の倫理的責務を達成できよう。だが、子どもという大人ほど分別がなく、我慢強くもなく、また予測困難な行動をしてしまうような存在を帯同してしまえば、「迷惑をかけない存在としてふるまう」という、大人だけなら簡単にクリアできていたハードルが途端に高い関門となる。そう、電車内で泣いてしまえば、それだけでイライラさせてしまい、最悪の場合はこうして怒鳴られてしまったりもするのだ。
■「迷惑をかけてしまった」ときの制裁が恐ろしい
若い世代は「他人に迷惑をかけるようなことをしてはいけない」という倫理観をごく自然に内面化しているがゆえに、「迷惑をかけるリスクを高める営為」である子どもを持つことに対して前向きな気持ちを持てないでいる。
「倫理的で向社会的な、他人に迷惑をかけない善良な市民社会の一員」として要求されるハードルを高めに高めた社会は、たしかにこれまでの時代とは比較できないほど平和で安全で快適にはなった。しかしそれを実現・維持するために一人ひとりが負担しなければならないコストもまた高まっている。
分別ある大人だけのカップルで生活するならまだしも、子どもを連れている状態では公共空間で「他人の快適性・安全性・平穏性をけっして侵襲してはならない」という倫理的ハードルをとてもではないが超えられそうになく、また超えられなかったときの制裁が恐ろしいものになっている。
近頃では、公共空間や公共交通機関で「周囲の迷惑を顧みない子どもや親子連れ」を見かけたら、それをスマートフォンで撮影してSNSにアップするという行為もしばしば見られている。「こんな人たちがいました。みなさんはどう思いますか?」という文言を添えて。皆さんもそうした写真が自分のアカウントのタイムラインに流れてきたことはあるのではないだろうか。これ自体は盗撮の一種だろうし、法的にも倫理的にも問題があるように見えるが、しかしやはり定期的にタイムラインを賑わせており、「こんな子ども/親はけしからん」という怒りの共感が広がっていたりもする。
■子どもを持つことにリスクを感じさせる緊張感の高まり
子どもが公共の場で少し騒がしくしてしまうことなど、どれだけ躾を厳しくしたって完全にゼロにはできないだろうにもかかわらず、「社会の秩序や規範を逸脱する不届き者」として厳しい視線を向けられ、場合によっては盗撮されてSNSに晒され、大きくバズって数千万ものアクセスを獲得してしまう――こんな状況は、とくにSNSに親しんでいる若い世代にとっては恐怖以外のなにものでもない。潜在的には子どもを持ちたいと考えている若いカップルであっても、こうしたギスギスした緊張感の高まりは、子どもを持つことに心理的なリスクとためらいを感じさせるには十分だ。
とくにこうしたトラブルは公共交通機関の発達した(人が密集して暮らしている)都心で起こりやすい。だが、所詮は都心の問題にすぎないのだから……とは片付けられない。なぜなら近年は都心とくに東京に若年層やファミリー層が全国から集まっているためだ。都市部への若者の流入が止まらない現状では、都会で子どもを持つことによる「ただしい社会市民」としての要求を達成する難度が跳ね上がってしまえば、それはそのまま「多くの若者にとって子どもを持つことをためらわせる原因」のひとつとしてダイレクトに結びついてしまう。
■一昔前は「子育てにまつわる責任」をうっすら分散できた
「ちゃんとした親として世間に顔向けする」というハードルの高さは、公共空間でのマナーに限った話ではない。教育を含めた子育て全般にも言えることだ。
親になったからには、栄養や健康にも最大限気を配るちゃんとした生育環境を整えることから始まり、塾や習い事などちゃんとした教育投資を行うことを求められ、ちゃんとした就職先を見つけて独り立ちするまで面倒を見てようやく「ちゃんとした親」とみなされる――それらは核家族化した現代社会の親たちが背負う責任としてはあまりにも“重い”ものだ。
ひと昔前の親たちは、一人当たりが背負う「親の責任」がよくもわるくももっと小さいものだった。かつては核家族化が進んでいたとはいえ、周囲には親族や兄弟がそれなりに暮らしていて、あるいは隣近所の住民ともつながりがあり、子育てにまつわる責任をうっすらと分散させることが可能だった。しかし現在はそもそも親とも兄弟とも近くで暮らしておらず、近所づきあいもなくなっており、しかも子ども一人当たりにかける投資は時間的にも経済的にも文化的にも高まっており、それらを夫婦だけで全うできる人はそう多くなくなっている。
■中国や韓国で苛烈化する「学歴競争・受験競争」
中国や韓国で強烈に進行する少子化はSNSでは冗談めかしたニュアンスを含みながら「フェミニズムが侵出したせいだ」というのが定説になっている。もちろんそうした思想が若年層で流行していることと一切関係していないとは言わないが、しかし実際のところは、日本とは比べ物にならないスケールで苛烈化している学歴競争・受験戦争を背景とした「親としての責任(≒子どもへの投資)」の青天井の高まりにもはやついていけない人が増えているからでもあるだろう。
中国や韓国の若者は、自分の親世代が自分に信じがたい質量の教育・文化投資を行ったのをその身をもって知っている。それはつまり「自分が子どもをつくれば、親がかつて自分にやってくれたことをそのまま再現しなければならない」という未来図をダイレクトに共起する。わかりやすくいえば「すべてを捧げてでも受験戦争の勝者となる」というデスレースに今度はプレイヤーとしてではなく親としてもういちど参加しなければならないことを意味しており、それが今どきの若者たちにとっては「子どもをつくるのはコスパが悪い」という判断をより強化しているということだ。
日本でも空前の「お受験ブーム」に象徴される教育投資レースが近頃は苛烈化しており、中国や韓国と同じ方向性で「親をやることの重責」が高まっている傾向にあるといえよう。「子どもをつくる=子どもの人生を勝ち組にする責任を負わなければまともな親ではない」という前提が内面化され、なおかつ子ども同士の競争が激化している以上、自分の人生のすべてをかけて子どもを一人前のエリートに育てなければ「親としてのまともな責任を果たしていない」と見なされる――そんなプレッシャーを受けてしまう。
■どんなに支援策があっても「産まないほうがコスパがいい」
そうした文脈を踏まえて考えれば、いま政府が提唱している「3人産んだら大学無償化」は一見すれば子育て世帯に寄り添っている政策のように見えるかもしれないが、学歴競争・受験戦争への参入人口を増やす(大学進学以外の間口を相対的に狭めてしまう)せいで、たとえ数百万円程度の経済的便益があったとしても、それを帳消しにしてしまうほど「親としての精神的負担」は大きくなってしまう。
結局、教育投資を支援する政策をはじめとした子育て支援策がいくら出されようが、子どもをつくってしまえば「社会に迷惑をかけない、世間に顔向けできるちゃんとした親」をやることには変わりはない。最初から子どもをつくらなければ、公共の場で「ただしくない存在」になるリスクをゼロにできるし、なおかつプライベートを全部捧げて「子どもの人生の責任を取るちゃんとした親」という倫理的責務を課せられずにも済む。
そう考えれば「なんだかんだ言っても、やっぱり産まない方がコスパがいい」と考える人が増えることはそれほど不思議ではないし、現に中国や韓国はそうなっている。
■命を大事にするからこそ、命が生まれない
現代社会は、歴史上類を見ないほど子供の安心や安全や健康や快適や自由が守られている社会である。また、さまざまな娯楽やエンタメにも恵まれており、通信技術も発展している。子どもにとってはまさしく理想的な時代のようにも思える。にもかかわらず、生まれる子どもは明治大正昭和平成の時代に比べれば圧倒的に少ない。
それはほかでもない、「平和で安心で安全で健康で快適で自由な社会の一員」を遵守するためのコストやリスクを、これから子どもを産み育てるはずだった世代の人びとが負いきれなくなっているからだ。
子どもが「子どもらしく」生きることは推奨されず、「社会の準正規メンバー」として順応することを期待される社会では、親は子どもを持てば持つほど「社会の正規メンバーとしてきちんと育て上げる」という管理責任を厳しく問われる機会が純粋に増えてしまうことになる。そんな社会状況で子どもを持ちたいとポジティブに思えるのは、子育てに経済的・人的リソースが豊富にある超富裕層か、あるいは社会から課せられる倫理観などどうでもよいと跳ね除けられるはみ出し者くらいになっていく。
まったく皮肉としか言いようがないが、いまほど社会が安全でも快適でも自由でも平和でもなく、親の責任も子どもの人生もはるかに「雑」に扱われていた時代のほうが、たくさんの子どもが生まれていた。
私たちは、「命」を大切にしすぎたせいで、「命」が生まれない社会に生きている。
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文筆家・ラジオパーソナリティー
会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS(シノドス)」などに寄稿。「note」での連載をまとめた初の著作『矛盾社会序説』(イースト・プレス)を2018年11月に刊行。近著に『ただしさに殺されないために』(大和書房)。「白饅頭note」はこちら。
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RT 迷惑の判定は、騒いでる子供をあやす努力するかどうか、そもそも小さい子供連れて行くべきではない場所に連れて行ってないか、子供連れである事を権利と勘違いして振る舞ってないか。要は子連れ様でなければ基本は問題ないんであって、親の責任果たすなら我慢するし、ソレ自体が負担に思うなら周り云々関係なく産まないのは適切 |
わかめ 人間の生物として高齢出産が不向きな事を無視し、そして40以上になり周囲の子供を産む選択した女性を見て子供が欲しくなり不妊治療の支援をしろとか言い出す 出来る間は放置し出来辛くなって支援しろとかコストパフォーマンスって観点からすれば最悪だよな |
ヤマダ 昔は子供は労働力であり、老後の面倒見を見てくれる介護士であり、死んだ後は墓を守ってくれる墓守だった。だから生む価値も育てる価値もあった。だが今や子供は金を食うだけで、老後の面倒をみてくれず、墓なんて見向きもしない。そりゃメリデメを考えたら余程のバカで無い限り子供は作らんわな。で、子供を作る必要が無ければ結婚する意味もない。 と、考える人間が増えているんだよ。 |