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8月15日は「終戦の日」ではない…早大教授が「終戦の日は9月2日に改めるべき」と強く主張する理由

8月15日は「終戦の日」ではない…早大教授が「終戦の日は9月2日に改めるべき」と強く主張する理由 | ニコニコニュース

日本の「終戦の日」は8月15日とされている。ただし、その後も日本の戦争は続いていた。早稲田大学の有馬哲夫教授は「ソ連軍が終戦協定に調印したのは9月2日で、それまでソ連軍は日本侵略を続けていた。終戦の日はソ連軍が終戦協定に調印した9月2日に改めるべきだ」という――。

■ソ連は終戦協定を結んだあとも侵略を続けた

毎年8月15日は「終戦の日」として、マスコミはこぞって、地面に手をついて玉音放送を聴く人々の映像を流す。日本人はこれを見て、戦争の悲惨さに思いをはせ、平和への思いを新たにすることになる。毎年恒例のメディア・イベントだ。私たちは先の戦争が8月15日に終わったと思い込まされている。

しかし、ことソ連に関しては、戦いは決して8月15日で終わっていない。例えば駐蒙軍司令官根本博中将は、約4万人の日本人居留民を護るため8月19日以後3日間も満州でソ連軍と戦った。千島列島の占守島では、8月18日から第5方面軍司令官樋口季一郎中将がソ連軍と戦いを始めた。日本側1018人、ソ連側1567人の戦死者を出したこの戦いが日本側の降伏によって終わるのは8月22日である。

ソ連軍が日本に対する組織的軍事行動を停止するのは、歯舞、色丹の占領を終えた9月5日で、これは東京湾の戦艦ミズーリ号上で終戦協定が結ばれた3日後のことだ。つまり、ソ連は終戦協定を結んだあとも日本を侵略し続けたのだ。

■関東軍に見捨てられた満州の悲惨な「終戦後」

満州、樺太、千島列島にいた日本人にとって、8月15日は、終戦の日どころではなかった。とくに、関東軍が日本人居留民を見捨てた満州では、ソ連軍による略奪、暴行、強姦、虐殺が8月15日以降も続き、20万人を超える日本人が命を失った。さらには、約60万人の日本の軍民がシベリアに強制連行され、次の1年間で約6万人が死亡している。

これでもまだ、8月15日を「終戦の日」というべきだろうか。今、日本はソ連の後継国であるロシアと緊張関係にある。ロシアは、あの手この手でプロパガンダを仕掛けてくる。対日戦勝利記念日を9月3日とし、これを祝うとか、「千島列島は先の戦争の結果ロシアのものとなった」とか……。いままでのように終戦についての歴史認識が曖昧だとロシアのプロパガンダに騙される恐れがある。

そこで、なぜソ連は8月15日以降も日本に対する侵略行為をやめなかったのか、なぜ他の連合国軍にくらべても、日本軍および日本人に対する振る舞いが残虐だったのか、領土問題をどう考えるべきなのか、これまで日本のマスコミがほとんど触れなかった歴史的事実をもとに明らかにしたい。

■「日本が無条件降伏した」は誤りである

日本の歴史教科書で、もう改めたほうがいいと思うものに「ポツダム宣言」という呼称がある。これは「日本の降伏条件を定めた公告」に改めるべきだ。事実、日本はこれを受諾することによって戦争終結を連合国に求めている。したがって、NHKはいまだに改めずにいるが、「日本が無条件降伏した」というのは誤りだ。

このことは、公告の第5条に「われわれの(降伏)条件は次のものである」とあり、そのあとに降伏条件が述べられていることからも否定のしようがない。第13条にもあるように、無条件降伏を求めているのは日本軍に対してであって日本でもなければ日本国民でもない。軍隊が降伏するとき、無条件降伏は当たり前だ。

公告を無条件に受諾したのだという人もいるがこれも誤りで、日本は「バーンズ回答」(日本側が「この公告は天皇の国家統治の大権の変更を含まないものと理解する」と降伏受諾に付帯条件を付けたのに対し「降伏と同時に天皇の国家統治の大権は連合国軍最高司令官の下に置かれる」とアメリカの国務長官ジェイムズ・バーンズが答えたもの)さえ呑んでいない。

■ソ連は「日本の降伏条件を定めた広告」に不同意

あくまでも、降伏したのちも日本の国の形は変えない、皇室は維持される(国体護持)という条件のもとに降伏している。だから、欧米の国民の間では「ヒロヒト」を罰すべしという世論が圧倒的に強かったにもかかわらず、戦犯にされるどころか、裁判にかけられることさえなかった。

しかし戦争が終わり、占領が始まると、占領軍はNHK(当時唯一ラジオ放送していた)や新聞などを使って「日本は無条件降伏した」というプロパガンダを流した。(以上、詳しくは拙著『日本人はなぜ自虐的になったのか』新潮新書 参照)そう日本人に思い込ませたほうが占領をやりやすかったからだ。だから「日本の降伏条件を定めた公告」ではまずかったのだ。

ソ連に関して問題なのは、この公告に、英米首脳の署名はあるが、ソ連と中国のものはないことだ。中国首脳の場合は、事前に同意を伝えていたので問題ない。だが、スターリンの場合は「日本の降伏条件を定めた公告」に同意していない。この点はこれまでほとんど注意を向けられてこなかったが、このあとのソ連の振る舞いを決めた決定的要因だった。

■7月16日に原爆実験成功、米英が手のひら返し

この文書の現物はアメリカ国立第2公文書館にあるが、おどろくなかれ、署名は自分のものもチャーチルのものも、トルーマンがしている。

実は、スターリンは、降伏条件のソ連案を携えてポツダムに来ていたのだが、トルーマンもチャーチルも、それについて取り合おうとはしなかった。会議中の7月16日にアメリカ・ニューメキシコ州のアラモゴードで原爆の実験に成功したので、英米首脳がそれを知った7月17日以降は、もはや日本を降伏に追い込む上でソ連の助けはいらないと思うようになったからだ。

その17日に両国首脳は、スターリンからソ連は8月15日に日本との戦争に入ると聞かされてたしかに喜んだのだが、原爆が相当威力のあるものだと知って手のひらを返した。

翌日にスターリンが「日本の天皇が降伏を求める電報を送ってきている」と両国首脳に告げたときも、彼らはこの話にのってこなかった。のれば、スターリンと日本の降伏条件について話し合うことになり、ソ連を日本の戦後処理に参画させることになってしまうからだ。

■「われわれはソ連を戦争に参加させたくなかった」

彼らは、この段階では、ソ連には日本との戦争に加わってもらいたくないと思っていた。ヤルタで協議した「極東密約」(ソ連の参戦と引き換えに南樺太、千島列島、東清鉄道などを引き渡すとしたもの)が効力を持つことになるからだ。彼らは、これ以後、ソ連の参戦をできるだけ先延ばしし、日本の降伏を早めようとし始める。それによって、参戦させず「極東密約」を無効にしようとした。

このようなわけで、英米首脳はスターリンと日本の降伏条件について、戦後処理について話し合うことをせず、事前に用意していた「日本の降伏条件を定めた公告」をそのままプレスリリースしてしまった。だから、文書の現物にスターリンの署名がないのだ。

ソ連外相のヴャチェスラフ・モロトフが7月29日に対日参戦の要請を文書で出してほしいと要求したときも、米国務長官のバーンズは言を左右にして応じなかった。

トルーマンはのちに回想録で「米国と連合国は、ソ連を日本との中立条約に違反させる義務を負っていない」と書いている。バーンズはもっと直接に「日本の降伏が近くに迫っており、われわれはもちろんソ連を戦争に参加させたくなかった」と自伝に書いている。(拙著『原爆私たちは何も知らなかった』新潮新書 参照)

■ポツダム会議で実のある議論はなされなかった

スターリンは、イギリスの物理学者クラウス・フックス(元の国籍はドイツ。マンハッタン計画にイギリスから派遣されていた)などから原爆開発の情報を得ていたし、トルーマンからも7月24日に「われわれは異常なまでの破壊力をもった新兵器を持っている」と原爆の所有をほのめかされていたので、英米首脳の心変わりの理由を察することができた。

彼らは、原爆で日本を早期に降伏に追い込んで、ソ連に参戦させず、日本の戦後処理の枠組みに入れず、日本に関わるあらゆる権利から遠ざけようと思っているということだ。

こうしたことからポツダム会議は大したことも決めないまま、唐突に打ち切られた。とりわけトルーマンは、原爆を使用した後のほうが、はるかに有利な立場でソ連やほかの連合国と話し合いができると思っていた。事実、日本や朝鮮の戦後処理など重要な案件に関しては、およそ1カ月後の1945年9月11日から開催されたロンドン外相会議で話し合われることになる。

これまでポツダム宣言は、カイロ宣言やヤルタ宣言のようなものだと考えられてきた。つまり、カイロやヤルタで首脳たちが話し合って決めたものを宣言したものだということだ。だが、これまでも述べてきたように、ポツダム会議で実のある議論はなされなかった。

■「われわれ」に入らないソ連は日本侵略を開始

英米首脳は、さして話し合いもせず、あらかじめ用意していた「日本の降伏条件を定めた公告」をスターリンの同意を得ることなく発出した。ソ連から見れば、同意を得ることなく出された「降伏条件」なのだから自分はそれに縛られないということだ。

このことはとくに公告の第8条に関して重要な意味を持つ。この条項は降伏後の日本の領土に関するもので「日本国の主権は、本州、北海道、九州及び四国、並びにわれわれの決める小さな島に限定される」となっている。つまり、本州4島以外の小さな島を決める「われわれ」に、署名していないソ連は入っていないのだ。

ということは、この降伏条件は、日本が受諾しても、英米などソ連を除く連合国と日本の間では有効でも、ソ連に対しては有効ではないということになる。たとえば、英米が千島列島を日本に残すと決めたとしても、ソ連はその決定に拘束されない。それどころか、なんら合意がないのだから、北海道や東北まで侵攻することさえできる。すべては、「日本の降伏条件を定めた公告」とは関係なく、その後の英米とソ連の軍事的な力関係で決まるということになる。事実、そうなった。

8月9日早暁、ソ連は日本侵略を開始した。つまり、8月6日の広島への原爆投下のあと8月9日の長崎への原爆投下の数時間前だ。

■終戦目前にソ連が出した嘘だらけの宣戦布告文

このときの宣戦布告文は次のようになっていた。

「本年7月26日付の日本軍の無条件降伏に関するアメリカ合衆国、イギリス、中華民国の3大国の要求は日本軍によって拒絶された。(中略)

連合国は日本の降伏拒絶に鑑み、ソ連に対し日本に参戦し、それによって戦争終結の期間を短縮し、犠牲者の数を減らし、速やかに全体の平和回復を促進するようにとの提案を行った。

連合国としての義務に忠実なソ連政府は、このようなソ連政府の政策は平和の到来を近づけ、諸国民を一層の犠牲と苦しみから解放し、ドイツが無条件降伏を拒んだあとドイツが経験した危険と破壊から免れる可能性を日本国民に与えることができる唯一の手段であるとみなしている。(後略)」

これを読むと唖然とする。宣戦布告で嘘をいうとはソ連はどういう国なのだろう。前にみたように、前段はその通りだが、中段と後段は真っ赤な嘘である。ソ連を除く連合国は、日本に対する戦争にソ連が加わることを、この当時提案してないし、望んでさえいなかった。

また、ソ連が加わることで、戦争終結の期間を短縮し、犠牲者の数を減らし、速やかに全体の平和回復を促進できるなどあり得ず、まったくその逆だと思っていた。とくに英米は日本軍および外務省の暗号電報の解読から日本が降伏を決意する最後の瞬間を迎えていたことを知っていた。終戦は目前にあった。

■天皇の「終戦の詔勅」はソ連には無意味だった

ソ連が日本との間の日ソ中立条約に反して、降伏寸前の日本に背信的侵略を始めたのは、宣戦布告文の中の美辞麗句とは裏腹に、日本から領土を奪うという大義のない、不法なものだった。

加えて、このまま黙っていたのでは、英米が日本の領土や将来の姿を決める「われわれ」の中にソ連を入れてくれない、できるだけ多くの日本の地域を軍事占領しておかないと、日本の戦後処理で英米と対等に渡り合うことができないということもある。だからソ連は侵略したのだ。

8月15日、昭和天皇は「終戦の詔勅」(玉音放送)を発して戦争終結を宣言し、大本営はすべての日本軍に戦闘停止を命じた。同日、トルーマンも日本の降伏を発表し、アメリカ軍に戦闘停止を命じた。だが、これはソ連軍にとってなんの意味もなかった。それはソ連軍を除く連合軍と日本軍の間の戦闘停止命令だからだ。

■ソ連を止められるのはアメリカの軍事力だけ

ソ連軍は「ドイツが経験した危険と破壊から免れる可能性を日本国民に与える」どころではなく、ドイツと同じ危険と破壊を、8月15日以降も日本に与え続けた。このため、まったく必要がない、何十万人という死者、何百万人という戦争犠牲者が新たに出た。

実は日本はスイスを仲介として英米と降伏の手続きを急いでいたのだが、スイスは当時ソ連と国交がなかった。だから日本はスウェーデンを通じて降伏することを伝えたが、スウェーデンは日本が降伏することを伝えただけで、ソ連との間に仲介に入って降伏交渉をしなかった。

スウェーデンとしても、ソ連と日本の間で降伏条件についてまったく話し合われていない以上、降伏交渉を仲介することはできなかった。たとえ、仲介していたとしても、できるだけ日本の領土を占領したいソ連はこれに応じなかっただろう。

もともと、日本は英米との終戦交渉の仲介をソ連に頼んでいたのだが、ソ連は領土的野望からこれに応じなかったのだ。スウェーデンはそのことをよく知っていた。ソ連の日本侵略に歯止めをかけられるのは、外交的枠組みではなく、アメリカの軍事力だけだった。

■スターリンは「北海道上陸作戦」を中止

8月15日、スターリンは、九州、四国、本州、北海道の日本軍をアメリカ軍に降伏させ、その他はソ連軍に降伏させると伝えてきたトルーマンの電報に対する返信で、北海道北部の占領の許可を求めた。トルーマンはこれを拒否した。「極東密約」になかったからというより、一部でも日本本土の占領を許せば、ドイツと同じく共同占領になり、それにソ連がつけこんでくることは目に見えていたからだ。

トルーマンの拒絶にあったスターリンは8月22日になって「私と閣僚は貴下からこのような回答をいただくとは思っていなかった」と返信し、それ以上この件に関してなにも言わなくなった。やはり、アメリカが原爆を持っていること、北海道と南千島までは制空権を握っていることが大きかっただろう。そのかわり、スターリンは中千島にアメリカ軍の飛行場を作りたいというトルーマンの要求ははねつけた。

『千島占領』(ボリス・スラヴィンスキー、共同通信社)によれば、同日の8月22日、アレクサンドル・ヴァシレフスキー極東ソ連軍総司令官は、ソ連太平洋艦隊司令官イワン・ユマシェフに北海道上陸作戦の中止を命じた。これによって、国後、択捉、歯舞、色丹より南にソ連軍が侵攻する可能性はなくなった。

あるいはスターリンの狙いは、最初から北海道北部ではなく、南千島、つまり北方4島の確保だったのかもしれない。これら4島は、日本とソ連の条約でも、アメリカ国務省の認定でも、北海道、つまり本土の一部であって千島列島の一部ではないとされていた。

■ソ連は9月2日、ようやく終戦協定に調印

スターリンは、過大な北海道北部の要求をふっかけたことによって「極東密約」で認められた以上の国後、択捉、歯舞、色丹、つまり本土の一部を手に入れることができた。結局、ソ連の日本に対する侵略に歯止めをかけられるのは、アメリカの軍事力、とくに原爆だった。それによってしかソ連に掣肘を加えることはできなかった。

なお、通俗的歴史家や保守系メディアがひところ「樋口季一郎中将の占守島での戦いが北海道を救った」と喧伝したが、これは事実ではない。スターリンはあくまでトルーマンの拒絶にあって北海道北部をあきらめている。それにユマシェフが北海道占領のために送ろうとしていた艦隊は、占守島など千島占領のための艦隊とは別のものだった。つまり、樋口中将の戦いがどうあろうと、ユマシェフは、スターリンの命があれば北海道占領のための艦隊を送りだしていたのだ。

9月2日、ソ連は他の連合国とともに終戦協定に調印した。これでようやくソ連に日本に対する組織的軍事行動を停止させる枠組みができた。もちろん、そのイニシアチブを発揮したのはアメリカだった。ソ連がこれを受け入れざるを得なかったのは、北海道北部占領を拒絶され、もはやこれ以上軍事占領できる余地はなくなったからだ。ソ連軍はこの3日後の9月5日、歯舞、色丹の占領を完了してから戦闘を停止した。

■日本の「終戦の日」は9月2日にすべき

こうしてみると、プーチンが対日戦勝記念日を9月2日から3日に変えようとする本当の意図が透けて見えてくる。彼にとって9月2日は、原爆の力を背景にしたアメリカに、ソ連の日本に対する領土的野心、とりわけ北海道占領、日本の戦後処理への参加、を抑え込まれた屈辱の日なのだ。だからこの日ではなく、9月5日までのどれかの日にしたかったということだろう。

日本としては「終戦の日」は、8月15日ではなく、ソ連にそれ以上の組織的軍事行動をとることをやめさせる終戦協定が結ばれた9月2日にすべきだろう。そして領土に関していえば、8月9日以前の日本の領土、つまり、南樺太、全千島列島の権利を主張すべきだろう。

なぜなら、ソ連が日本にしたことは、日ソ中立条約に反するものであり、他の連合国の同意もない、何の正当性もない侵略だからだ。侵略で得たものを領土とすることはできないとは、スターリンも加わったカイロ会談で確認されたことだ。だから、アメリカは1951年に上院で「極東密約」を批准しない決定をした。イギリスは批准を議会にかけることさえしなかった。

ソ連が日本にした侵略を正当化する根拠がなにもない以上、8月9日以後にソ連軍が軍事占領した地域をソ連が保有するのは不当である。ロシアが対日戦勝記念日を9月3日にするのは勝手だが、それをもって南樺太、千島列島の不法占拠を正当化することはできない。

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有馬 哲夫(ありま・てつお)
早稲田大学社会科学部・社会科学総合学術院教授(公文書研究)
1953(昭和28)年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得。2016年オックスフォード大学客員教授。著書に『原発・正力・CIA』『歴史問題の正解』『日本人はなぜ自虐的になったのか』『NHK受信料の研究』(新潮新書)など多数。

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ホワイトハウスにて、日本の降伏を発表するトルーマン大統領。1945年8月14日、ワシントンD.C.(写真=Abbie Rowe, U.S. National Park Service/PD US NPS/Wikimedia Commons)

(出典 news.nicovideo.jp)

かにかまぼこ

かにかまぼこ

終戦の日(終戦記念日)と終戦した日(記事内容に書いてある調印した日)は違うのと、国民の経験と事務上の手続きは違うってだけですね。細かいこと言い出したら北方領土戻ってきていない時点で戦争は終わっていないとかも言えますからね。

siroan

siroan

太平洋戦争が終わったのは8月15日でいいでしょ。結局ロシアとはまだ終戦してないし

ヨシヒラ

ヨシヒラ

調印は9/2まで延びたけど戦闘停止は受諾通告して部隊にも通達した8/15でしょ?「戦いが終わった日」なら8/15じゃん。9/2までドンパチやってたわけじゃないんだから(ソ連とかいう強盗は除く)

ASFASFASFA

ASFASFASFA

パヨオンなだけにソ連への配慮かな?

thousand

thousand

Если вы намерены осудить варварство Советского Союза после 15-го числа, я поддерживаю эту идею.(15日以降のソビエトの蛮行を糾弾するつもりならその考えを支持します)

金鯖缶

金鯖缶

終戦日は8/15だろ。 だから北方領土問題があるんじゃないか。

niko2

niko2

早稲田はやっぱりおかしい所なのかな と

ゲスト

ゲスト

ソ連及びロシアも友好は無理と言う証拠では有る。第二次世界大戦太平洋戦争で主敵はアメリカだった。だから終戦記念日は8月15日で良い。ロシアは敵対国と理解していれば良い。

RT

RT

また早稲田か。辟易するな。

リジー・ボーデン

リジー・ボーデン

むしろ悪質な横紙破りを受けたんだという事実を残しておくためにも今のままでいいんじゃないかな?

ひろぽん

ひろぽん

ウクライナ対ロシアにしたって大戦から100年続くヨーロッパ対ロシアだと知ってゾッとしたわ

margarine

margarine

だったらなおのこと8/15でいいだろ。ソ連とかいう卑劣な火事場泥棒の主張など1ミリも容れる必要はない。太平洋戦争は8/15に終わり、それに前後する形で8/9から始まったソ連の不法な侵略が9/2まで続いた。それが事実だ。いや、今なおロシアによる北方領土不法占拠という形で継続していると言うべきか。日ソ共同宣言が事実上保護にされたなら、ウクライナ東部と同じだ。

かにかまぼこ

かにかまぼこ

さっき叔父さんと話しててふと思い出した話を。聞いたのが6年ほど前なのでうろ覚えですけど、うちの母方の祖父は昭和20年4月か5月に徴兵され、最寄りの基地で訓練を受けて居る最中に8月15日を迎え無事戻ってこれました。戦時体制とか諸々は8月15日に変わったっぽいので記念日としては8月15日になるんじゃないですかね。

もっぷ

もっぷ

論外。9月2日を認めることはロシアの北方領土領有を認める行為。

Ry

Ry

どうでもいい。この馬鹿が目立ちたいだけのくだらない与太話。

mat

mat

反戦プロパガンダはお盆の風物詩だし戦没者の慰霊の時期としても丁度いいからこのままでいいよ(現代的価値観)

エフィア

エフィア

サンフランシスコ講和条約に参加しなかったから、ロシアの取り分はゼロだよ。早く国に帰れ。SF条約、日露和親条約、樺太千島交換条約、日ソ不可侵条約、日ソ共同宣言など全ての条約にロシアは違反している。記事は、ソ連ロシアの侵略を正当化したいのだろうけど、ロシアが日本に対して不当な行いを続けているのは変わらない。日本がどうこうしたとかとは別なお話だ。千島を全部返せ。

ゲスト

ゲスト

昔から卑劣なことしか出来ない劣等民族露助に焦点を当てるのも気分が悪いんだよなぁ。強姦魔と売春婦しかいない国w

あ゛〜

あ゛〜

北方領土返してないんだからロシアとは終戦しとらんけど?

BCTA

BCTA

ソ連が使ってた揚陸艦が、アメリカ軍の提供だったらしいという都市伝説もあるが、なんせ当時ソ連は無用な揚陸艦なんて持ってないですから

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