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山城新伍「孤独の老人ホーム死」でも絶縁・無視を貫いた元妻と娘の恨み骨髄

山城新伍「孤独の老人ホーム死」でも絶縁・無視を貫いた元妻と娘の「恨み骨髄」/壮絶「芸能スキャンダル会見」秘史 | ニコニコニュース

 俳優としてだけでなく、その軽快な話術で、バラエティー番組にも数多く出演していた山城新伍が2009年8月12日、嚥下障害による肺炎のため70歳で亡くなり、18日に京都市左京区の妙満寺でしめやかに執り行われた葬儀には、多くの報道陣が集まった。

 とはいえ、山城は糖尿病の悪化により芸能界を引退後、東京都町田市の特別養護老人ホームで生活していたこともあり、名優の突然の死もさることながら、報道陣の関心は別のところにあった。すなわち、1995年に破局した女優の花園ひろみと、一人娘の女優・南夕花の参列にあったのだ。

 東映のニューフェースとして出会った山城と花園は1965年に結婚し、夕花をもうけるも、山城のたび重なる不倫問題が原因で、1985年8月に離婚。だが離婚後も、2人は渋谷区内のマンションで隣同士の部屋に住むという奇妙な関係を継続した。

 離婚しているにもかかわらず、1987年には俳優・南条弘二の結婚式で仲人を務めるなどし、1991年に復縁。芸能マスコミを大いに賑わせたものである。

 ところが2000年4月、山城の所属事務所マスコミ各所にFAXを送付。実は前年8月に2人が2度目の離婚をしていたことを明らかにしたことで、その離婚理由を巡って、再び芸能マスコミを騒がせることになった。

 ところがそんな中、5月22日発売の「婦人公論」に、娘の夕花による「父・山城新伍への訣別」と題する手記が掲載される。そこでは離婚の原因を、山城の無神経な性格と、非常識な価値観に疲れ果てたからとして、次のような衝撃的な記述があったのだ。

〈急に山城さんと呼ぶのも変ですし、ほかに言いようがないので『父』と言っていますが、ほんとうは父と呼びたくない〉

〈いつか結婚することになっても、あの人とはバージンロードを歩くつもりはありません。今、父にはっきり伝えたいのは『さよなら』という言葉です〉

 これ以降、山城との没交渉が伝えられていただけに、葬儀への母娘揃っての参列に俄然、耳目が集まったというわけである。

 だが、葬儀に2人が現れることはなかった。葬儀後、記者会見に臨んだ山城の弟・渡辺鎮雄氏は、

「参列は無理だとは思っていましたが、悲しいことです。2人は法事でここに来たこともあるわけですから、心あれば来られたはず。実に悲しいですね」

 と唇をかんだ。

 鎮雄氏によれば、前年6月、山城を老人ホームに入所させる際に花園にも報告したというのだが、彼女から帰ってきた言葉は「死のうがどうしようが金輪際、連絡しないでほしい」。

 さらにホームでは、山城が何度も「娘に会いたい」と口にしていたこともあり、死後、幾度となく花園に連絡を入れたというが、音信不通が続いた。

 むろん、家族のことは家族にしかわからない。しかしそこには、最後の別れさえも拒絶することを選択した、この母娘の心から決して消えない、あまりにも深い確執が横たわっていたのである。

(山川敦司)

1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。

アサ芸プラス

(出典 news.nicovideo.jp)

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