鬼のように仕事しても給料は月10万、上げてと言ったら「0円になった」杏さゆりが語る、人気絶頂期に追い詰められたワケ | ニコニコニュース
“くびれの女王”と呼ばれ、2000年代前半にグラビアやバラエティー番組で活躍した杏さゆりさん。日本中の男性を虜にした彼女だが、人気絶頂期の給料はなんと10万円。さらに所属した芸能事務所により給料をゼロにされてしまう。精神的に追い込まれ、ついには躁うつ病とパニック障害を併発していたという――。(全3回の1回目/続きを読む)
◆◆◆
「めちゃくちゃクビレがいいね」人気に火がついたヤンジャン
――そもそも芸能界入りのきっかけは。
杏 中学生の頃、竹下通りでスカウトされました。女優になりたくて、演技がやりたいと言っていたんですけど、当時の社長から「売れたら何でもできるからとりあえず水着になっとけ」と言われて、分かりましたって。中学生なので何もわからなくて。
そこからオーディションをいろいろ受けて、『いつみても波瀾万丈』の再現VTRで、麻丘めぐみさんを演じたこともありました。そういうことをやっているうちに高1で受けた「ミスヤングマガジン」に合格して。
――今の「ミスマガジン」ですね。杏さんは2000年の準グランプリ4人のうちの1人で、その年のグランプリは川村亜紀さんでした。
杏 1年間ヤンマガで活動して、ラジオにも出演しました。2001年に初めての写真集を作るんですけど、その時のカメラマンが「めちゃくちゃクビレがいいね」と褒めてくれて。
そのカメラマンが私を勝手にヤングジャンプに売り込んでくれて、そこからグラビアにどんどん出るようになりました。
――ライバル誌に、よくすぐにいけましたね。
杏 ねえ。私もびっくりなんですけど(笑)。2000年のグランプリ、準グランプリ5人の中でも人気が最下位だったからあんまり期待されてなかったんだと思います(笑)。
父が転勤したので、高校を卒業してからイギリスに行きました。事務所には「大きい仕事があったら戻って来てね」とは言われてたんですが、3カ月たって、一度日本に戻ってきたら人気に火がついちゃっていて。「ヤンジャンに出てるあの子は誰なんだ」とテレビからのオファーもすごく来てたんです。
日本に戻ると1カ月びっちりスケジュールが埋まっていて。それをこなすと、またイギリスに帰る。そうすると「今度はいつ帰って来れるんだ」と言われて。結局2年間くらい日本とイギリスを行ったり来たりしてました。
――それだけ忙しいのに当時、給料が払われてなかったそうですね。
人気絶頂なのに給料が10万円
杏 払われてないですね。私から事務所に請求しないともらえなくて。でも大量に仕事をしているともう分かんなくなるじゃないですか。日本に帰国してNHK教育(現Eテレ)の『100語でスタート!英会話』に出演するくらいで給料が月10万円と決まって。そこからもう鬼のように仕事がずっとありましたけど、ずっと変わらず10万円でした。
――人気絶頂で10万円......。さすがに安すぎますよね。いつ頃からおかしいと考え始めるんですか。
杏 テレビのバラエティー番組に出始めたときです。楽屋で共演するグラビアアイドルの子たちがブランド物で身を着飾っていて。一方、私は撮影先のバリで買った安い麻のカバンに、服も衣装さんから安く買ったやつ。そうするとほかの女の子たちとも比べちゃいますよね。
私もブランド品を持ちたいなと思って、両親に「給料を上げてほしいと言ってみようかな」と相談したら父親から「給料は自分から言って上げてもらうもんじゃない。上げてもらえるまで黙ってろ」って言われて。それで言わずにいたら、みるみるうちに事務所が大きくなっていくわけですよ(笑)。当時、所属していたのは私一人なのに。
最初は原宿のマクドナルドの上にある小さい1部屋だったのが、同じビルの違う部屋に社長室ができて、向かいのマンションにスタジオ作って.......となって。車もアルファードとかベンツを買ってました。でも当時のマネージャーさんは免許を持ってなかったので、誰のために買ったのって。
――明らかに何かが変ですよね。
給料を上げてと言ったら、なぜか0円に
杏 社長もブランド物を着るようなタイプではなかったんですけど、久しぶりに会ったら全身プラダになっていて。プラダスポーツ着てましたね。赤いラインの。
あるとき社長室に行ったら、パソコンのスクリーンセーバーに社長が外国人とビーチでイエーイってやっている写真がスコン、スコンと出てきて。ああ、もうこれは言おうと思って、今度は両親に相談せず社長に「給料を30万に上げてほしい」って話したんです。
――当時の杏さんの売れ方からしたら、それでもかわいいもんですね。
杏 名前は言えないですけど、私より全然売れていないグラビアの子でも手取り70万円とか80万円とかもらっている子はザラにいたらしいんですよ。
それで給料を上げてと言ったら「わかった」って言ってもらえて。喜んでいたら、その月から10万円の給料すら入らなくなっちゃって......。
――えっ、0円。それ、どうやって暮らしていくんですか。
杏 部屋は借りてもらってたんですけど、家賃滞納の赤紙みたいなやつがいつも来ていて、ご飯もロケ弁を持って帰っていました。
スケジュールもパンパンで休みなし。一番ひどかったときは、昼前からNHKの英会話番組の収録をやって、収録後にその冊子の撮影。そこからドラマの現場に向かって、夜中から朝日のシーンまでずっと撮って、電車で家に帰ってシャワーを浴びて30分横になって、また次のバラエティーの現場にいくという感じで。
――給料についてその後、話す機会はあったんですか。
杏 ないですね。社長とも1年に1回会うか会わないかぐらいだったのですごい放置されてました。
それに当時は仕事しかしてなかったし、相談するような友達が本当にいなくて。唯一六本木のバーに面倒見のいいお姉さんがいて、お金がないからタダで飲ませてくれてたんです。「タクシー代あげるから帰りな」って言ってくれる人で、そこが憩いの場だったんです。
ストレスはずっと感じていて、だんだん心臓がバクバクと動悸したり、すごく元気になったと思ったら、だるくて全く起き上がれないときがあるようになってました。
そんな時、バーのお姉さんに「あんた、ちょっと躁うつ病っぽいから病院に行ってきな」って言われて、紹介してもらった病院に行ったら躁うつ病とパニック障害だって診断されました。
「正直、その頃の記憶が今もあまりないんです」
――その環境だとメンタルは当然やられますよね。
杏 夜も寝れなかったから病院で薬ももらったんですが、でもバラエティーの仕事ってテンションを上げないといけないじゃないですか。安定剤を飲むと落ち着いちゃうので、飲まないで現場に行くんですよ。
そうすると仕事ではワーッて上がるんですけど「お疲れ様でした」と言ってタクシーに乗った瞬間に一気に死体のようにガクンって力が落ちる。それを繰り返していたら、ますます酷くなって。正直、その頃の記憶が今もあまりないんですよ。
さらに「BUBKA」に、“杏さゆりがイケメンと六本木のバーに来て飲んで騒いでる”って記事を書かれて。
実際はバーのお姉さんがお客のおじさんたちに私がちょっかいをかけられないように、店員の子を隣に座らせてガードしてくれていたんです。その子がイケメンだっただけで嘘情報なんですが、書かれたことでお姉さんから「もう危ないから、店には来ない方がいいよ」と言われて、ますます追い詰められて。
――唯一の相談相手まで失ったわけですね。
杏 ある日、布団で寝ていたら、石の枕に、剣山のスプリングベッドに、包丁の刃がこっちに向いた掛け布団をかけているぐらい、皮膚に触れるもの全てが痛くて寝られないんです。
たまたま父親からその時に電話がかかって状況を説明するじゃないですか。そうしたら両親は当時台湾に住んでいたんですけど、やばいとなって、母親が一緒についてくれることになって。
仕事が終わって帰るといつも母親がマンションの下まで迎えに来てくれて、立ち上がれない私の肩を組んで、部屋まで連れて行ってくれていました。
――食事はちゃんと取れていたんですか。
杏 母親がごはんを作ってくれたり、躁うつの躁のときに食べていましたけど、痩せてましたね。
MOUSSYってブランドのパンツあるじゃないですか。あれって普通のサイズのものより1、2サイズ小さめだと思うんですが、それの23インチぐらいが当時はブカブカで。ヤバくないですか(笑)?
病気が治った後もそのパンツだけは戒めに持っていたんですけど、普通の体重に戻ったときにはいたら全然はけないんですよ。膝上あたりで止まっちゃうんですよ。怖いですよね。
痩せている頃、ドラマを撮ってたんですけど、現場のメイクさんに私が痩せすぎているから薬物を使用してるんじゃないかと心配されていました。
〈「でっかいヌーブラと競泳用のアンダーパンツを用意して」脱がされまいと3、4時間戦った…杏さゆりが語る、壮絶なグラビア撮影の記憶〉へ続く
(徳重 龍徳)