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世間では「棒演技」と見る声もあるが…朝ドラ『ブギウギ』草彅剛の「羽鳥善一」が主人公に見えてしまうワケ | ニコニコニュース

 最初に謝っておきたいことがある。趣里さんにも笠置シヅ子さんにも他意はない。いや、趣里さんの演技はすばらしいし(映画『ほかげ』も打ちのめされました)、笠置シヅ子さんの『ジャングル・ブギー』が大好きだ。が、しかし、朝ドラこと連続テレビ小説ブギウギ』(NHK)を見ながら、作曲家・服部良一モデルにした羽鳥善一(草彅剛)が主役のドラマが見たくて、うずうずする心が収まらないのである。ほんとうにこの気持ちをどうしたらいいものか。

羽鳥主人公ドラマが見たくなる理由

ブギウギ』は実在の歌手・笠置シヅ子モデルにした福来スズ子(趣里)が地元・大阪を飛び出して、“ブギの女王”としてスター街道を駆け上がっていく物語である。

 その物語のなかで羽鳥はヒロインの相手役(夫や恋人)ですらない。朝ドラヒロインに欠かせないメンター的存在で、作曲家としてスズ子に『ラッパと娘』や『東京ブギウギ』を提供し、彼女の才能を伸ばしていくひじょうに重要な役割を担っている。

 重要とはいえあくまでメンター的な存在。にもかかわらず、2024年の年明け最初の放送は羽鳥はじまりだった。だから余計に羽鳥主人公ドラマを見たい心が刺激されるのだ。まったくNHKいけずである。

 戦争中、上海に渡っていた羽鳥は、日本軍が国策として開いた音楽会で、中国人作曲家・黎錦光(浩歌)が作った曲『夜来香』にアメリカのブギのリズムを忍ばせて、『夜来香ラプソディ』を編曲する。音楽会は大成功。だがほどなく日本は戦争に負けて、中国で日本人排斥運動が起きる。中国人から銃を突きつけられるという危険な目に遭いながら、なんとか日本に帰国した羽鳥は、敗戦で元気のなくなった日本人たちのために、明るいブギのリズムをもたらす。……と、こんなふうに書くといかにも『羽鳥善一物語』が進行しているようではないか。

ブギウギ』はスズ子の一人称の物語ではないので、時々、ほかの人物の視点が入ってきてもおかしくはない。とはいえ、ドラマ全話の半分まで来て、いまだにスズ子には明確な意思がなく、羽鳥ばかりが確たる信念のもと行動しているため、どうも羽鳥の物語のように見えてしまう。

 羽鳥のモデルである作曲家・服部良一の物語が劇的で興味深いからさもありなん。上海のエピソードも実話に基づいたものである。そして、演じている草彅剛が主役クラススター俳優のため、どうしても目立ってしまうことが良し悪しだなあと感じる。

朝ドラの「メンター」としては異質な存在

 朝ドラではかつて、『半分、青い。』の豊川悦司や、『とと姉ちゃん』の唐沢寿明、『おかえりモネ』の西島秀俊などがそうであったように、主役クラスの俳優が脇に回ってヒロインサポートすることは少なくはない。ただ、彼らはあくまでも主人公に寄り添う役割を逸脱することはなく、彼らの個別の問題にドラマが時間を割くことはなかったし、ましてや、彼らが作品のテーマを語ってしまうようなことはなかった。そのなかで『ブギウギ』の羽鳥はちょっと異質である。

 スズ子の才能を見出し導いていくという点では、先述のメンターたちと同じ役割ながら、年明けに放送された第65回では「音楽は時世や場所に縛られるなんてばかげている。音楽は自由だ。誰にも奪えないってことを僕たちが証明してみせよう」(脚本:櫻井剛)と熱く語ってしまう。しかもスズ子のいないところで、だ。そのため、ここでも羽鳥善一物語の世界線が分岐しはじめて見えてしまう。わざとやってるだろうと感じる。スピンオフ『羽鳥善一の上海の冒険』みたいなものがあってもいい気がする。

 上海の逸話をやや強引に挿入しているように見えることには理由があるのだ。スズ子の人生を激変させる大ヒット曲となる『東京ブギウギ』の誕生の出発点になるので、手厚く描く必要があったと、制作統括の福岡利武チーフプロデューサーは語っている(“羽鳥善一(草彅剛)の上海のエピソードを、今後の『東京ブギウギ』誕生のためにもしっかり描きたいですし” yahooニュースエキスパート12月25日配信記事より)。いや、でも、それだと、やっぱり『東京ブギウギ』を作った羽鳥がドラマの中心になってしまうような気がするが……。

 スズ子は目下、恋人・愛助(水上恒司)との愛の日々を最優先していて、そのため歌に身が入っていないように見えるし、楽団は二の次になっているようにも見える。朝ドラ主人公は、こういう欠点や弱点をあえて付与されているのだろうなあという気がして気の毒である。

モデルになった服部とシヅ子の関係

 服部良一の自伝『ぼくの音楽人生』によると、スズ子のモデル笠置シヅ子は“舞台の華やかさ、力強さに反して、彼女の私生活は別人のようであった”、“質素で、派手なことをきらい、まちがったことが許せない道徳家でもあった”そうだ。そんな人物がひとたびステージに上がると、陽気に元気よく跳ね回る。『ブギウギ』でも、スズ子は羽鳥の音楽によって心を解き放ち、見た観客もまた続く。それが良きところではある。

ブギウギ』のオープニングで、スズ子らしきキャラクターがあやつり人形をモチーフにして見えるのは示唆的で、福来スズ子は羽鳥善一のあやつり人形だったという解釈もあながち間違いではないのではないか。ただし、そこには悪い意味ではなく、いい意味しかない。

 タモリ赤塚不二夫の告別式で述べた「私もあなたの作品のひとつです」という伝説の弔辞にも似て、福来スズ子は、羽鳥善一の作品であり、羽鳥の希求する自由という理想の体現者なのだろう。羽鳥善一は名前のごとく音楽で善行しかしていないからである。と、羽鳥主人公ドラマの妄想の翼がぐんぐん広がってしまうのは、モデルになった服部良一の力もあるが、草彅剛の力にほかならない。

羽鳥を演じる草彅剛は「棒」なのか

 草彅剛が演じる羽鳥善一は、どんなときでも飄々と淡々として、“楽しさ”を第一に、たいていニコニコユーモアのある言動で他者と接する。他者の感情に乱暴に踏み込まず、厳しいことを言うときでも決して声を荒げない。北風タイプではなく太陽タイプである。

 のほほんとしながら、じつは人一倍、音楽を愛していて、戦争によってやりたい音楽が禁じられたときに眠れない日々を過ごすような繊細な面は妻だけが知っている。上海でも、日本が負けたとき、帰国できないのではないかという不安から、いくら飲んでも酔えないんだと黎錦光に少しだけ弱音を吐いた。

「福来く~ん」とあの独特のライトな話し方を、世間では棒演技ではないか、と見る声もあるが、断じて彼が棒ではないことは、上海の部屋でひとり不安に苛まれている表情を見ればよくわかる。

 棒ではないが、嘘のつけない俳優だと思う。これは実際に本人が語っている。映画『サバカン SABAKAN』に出演したときキネマ旬報で行った金沢知樹監督との対談(22年8月上旬号)で“僕は芝居で嘘をつけないタイプだから”と言っていた。その場で感じたことが表情に出てしまうのだ。だから、明るくフラットライトスタジオセットである種、規則的に撮っていく番組だと、「福来く~ん」になってしまうし、たまにライトに凝って陰影がつくと、表情も声もふっと陰りを帯びるのだろう。

 演技にはいろいろあって、草彅剛の演技の特性は同調能力の高さにあるように思う。例えば、23年の暮れに放送された『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』(NHK)で演じた主人公は、芯の強い静けさを帯びていた。

 コーダと呼ばれる、両親、あるいはどちらか一方の親がろう者の子どもとして葛藤を抱えながら、彼の使う手話は、正しく感情や状況を伝える。揺れる心と的確な動作はまるで綱渡りを行う者のようで、その緊張感から原作の深さまで伝わってくる。11年ぶりに出演した『世にも奇妙な物語』の『永遠のふたり』(フジテレビ系)では、いい意味のお台場感(少しバブルな華やかなエンタメ感)が漲っていた。

 スター俳優には、いついかなるときも自身のクオリティーキープする能力に長けた人が多いが、草彅の場合、周囲の空気に馴染み、的確に再現する能力に長けている。つまり、彼を見ていれば現場の求めるレベル、あるいは現場のポテンシャルがわかってしまうという、ある意味、おそろしい俳優である。

師匠つかこうへい草彅剛に与えた影響

 草彅剛の近年の当たり役となった映画『ミッドナイトスワン』のとき、彼は撮影前、主人公の部屋のセットひとり佇んでいたらしい。理屈で、この人物はこうだああだと考えるのではなく、ただその場で耳をすます、感じる、そこに漂うものを身体に染み込ませる。こういうやり方を彼はどうして身につけたのだろうか、その発露を考えると、劇作家・つかこうへいの口立てにたどり着く。

 草彅の演劇の師匠であるつかこうへいは稽古場でセリフを作り、俳優に語りかけ、その通りに俳優は覚えて演じるという独特のやり方を行っていた。筆者は、その稽古場を見たことがあって、一度だけ、至近距離で草彅剛がつかの言葉で変容していくのも見た。

 当時は、つかが草彅のなかにある激しいものを引き出しているのだと思っていたのだが、そういうところもある一方で、いまでは草彅が自分の中に、つかこうへいを取り込んでそれを体現していたようにも思うのだ。

 ダンスの振りをまず覚え、そこに多少アレンジを加えるように、まず正確に作家の口調をなぞり、自分の肉体を通して表現してきたことが、その後の草彅の芝居に生かされているのではないだろうか。

 だからこそ、羽鳥善一を通して、音楽家服部良一主人公として、鮮やかに立ち上がり、ほかの登場人物を凌駕しそうになるのだろう。でも、決して出過ぎない。ある一線から出過ぎることを抑制して、本当のヒロインを前に立たせている。優しさというのか上品さというのか、この物語の主人公は誰なのか、わきまえる、そこが草彅剛である。

(木俣 冬)

羽鳥善一を演じる、草彅剛さん ©文藝春秋

(出典 news.nicovideo.jp)

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